ブログトップ | ログイン

Challenge for dream !

dreamk.exblog.jp

夢に向かってチャレンジ!

NO.43 ウルトラマラソン ( 熊野古道 )

 2011年5月2日 月曜日  晴れ


今日の午後の診療が終わったら和歌山に向かいます。

例年であれば、ゴールデンウイークは萩往還マラニック大会に出場するのですが、今年は熊野古道を走ることにします。
熊野古道を走る大会があるのではなく、自分で計画して走るのです。
この私の提案に応じてくれた仲間が4人います。
私を含めて、5月3日は3人が、4日は5人が熊野古道 (中辺路) の115kmに挑みます。

この約2ヶ月、あちこちの山で足を鍛えてきた成果を発揮したいと思います。

この結果は、後日、報告します。


タイトルに記した「マラニック」は、マラソンとピクニックを合わせた造語です。バッグに飲食物を入れて、長い距離をマイペースで楽しく走ることを目的としています。




熊野古道について、インターネットで調べたものを記します。無断で掲載します。


熊野古道は、各地から様々な思いを抱えながら熊野を目指して人々が歩いた巡礼の道です。
熊野古道、熊野街道などの呼び方がありますが、世界遺産登録された名称は「熊野参詣道」です。
熊野三山・高野山・吉野大峯といった霊場と、そこへ至るための広範囲に及ぶ参詣道、そこを歩いた巡礼者たちを受け容地域が、今もなお紀伊半島の広い範囲に残っています。

「奥の細道(東北~中部)」「中仙道(信州~中部)」とともに、日本三大古道の一つでもあります。

熊野古道は、中世以来、紀伊半島の南に位置する熊野三山 (本宮大社・速玉大社・那智大社) に詣でるため、平安時代の貴族に始まり、武士や庶民に至るまで、約千年にわたってたくさんの人々が、歩いた参詣道です。
この熊野古道が通る一帯は、いまでも手つかずの自然が多くのこる環境で、昔から、神々が宿る特別な地域と考えられていました。
神道や仏教、さらには修験道や真言密教などというまったく違ったものを、さらに老若男女、区別することなく受け入れ、そのまま今世紀まで参詣道として歩き続けられてきました。

熊野古道は、京都を出発点に大阪府内、和歌山県の田辺市付近まで縦断する「紀伊路」、そこから熊野三山まで海岸線を往く「大辺路」、紀伊半島を横断する「中辺路」があり、高野山と本宮をつなぐ「小辺路」があります。
また、本宮大社と速玉大社をつなぐ「熊野川」も信仰の対象とされ、多くの人々が往来しました。
さらに、伊勢から入る「伊勢路」、奈良県吉野とつなぐ急峻な山道は「大峯道」と呼ばれています。
その殆どが山越えの険しい峠道で民家も少なく、行き倒れも多く難行苦行の修行の旅であったことは想像に難くありません。

熊野三山が成立した平安時代中期、法皇や上皇の御幸がはじまると、その影響で街道や宿場が整備され、「熊野詣」がますます盛んになりました。
その後、皇室から武士さらには庶民へと信仰が広がり、「蟻の熊野詣」と言われるほど多くの人が訪れるようになりました。
熊野信仰がこのような広がりを見せた背景には、11世紀半ばから広まった浄土信仰によって、熊野が「死霊の地」ではなく「浄土の地」として認識されるようになったこと、本宮大社で悟りを開いたとされる一遍上人を開祖とする時宗の僧が、庶民たちに熊野信仰を説いてまわったことによって、長く険しい熊野への道のりを越えていくことで悟りを開き、熊野に行けば救われる、そう信じられるようになったのです。

1907年の宇多法皇の「熊野行幸」が最初と言われています。
熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の「熊野行幸」からと言われています。白河上皇はその後あわせて9回の「熊野行幸」を行いました。
これにより京都の貴族の間に「熊野詣」が行われるようになりました。
その後、後白河上皇も33回の「熊野行幸」を行いました。
江戸時代に入ると、「伊勢詣」と並び、「熊野詣」は、広く庶民が行うようになったといわれています。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようです。
明治維新後は、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減し、「熊野詣」の風習も殆どなくなってしまいました。
熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。

盛んになった「熊野詣」には、いろいろな地方からのルートができました。
大きく分けると6つのルート(紀伊路・大辺路・中辺路・小辺路・大峯道・伊勢路)がありますが、その中でも人気があったのが、伊勢神宮から熊野三山を目指す「伊勢路」です。
紀伊半島の西側を通る「紀伊路」が法皇や上皇らの御幸ルートであったのに対し、「伊勢路」は庶民の道として、お伊勢参りを終えた旅人や西国三十三カ所めぐりの巡礼者たちが通りました。

この熊野詣のための道が本格的に整備されたのは江戸時代(17世紀前半)で、紀州藩藩祖の徳川頼宣が、藩政の諸政策を進める中で街道の整備を重視しました。
政治的な交通路として、和歌山から新宮までの「紀伊路」に伊勢までの「伊勢路」を加えて、熊野街道として整備しました。


熊野12権現の中に「若一王子」といって天照大神が祀っていますが、これは熊野三山の最初の祭神である伊邪那岐・伊邪那美2神の子供の神ということで「王子」といいいます。
また、神仏習合の上から、仏教語の「童子」に対する神道の言葉として「王子」を用いたものとも言われています。
熊野99王子は、大阪から熊野に出る道中に散在する神社で、熊野詣での際の、遙拝所・休憩所・宿泊所となりました。今で言う道の駅に、イベント広場や宿場がある感じのようです。

最初は、藤白・塩屋・切目・岩代・滝尻・近露・発心門の7社にすぎなかったのが、皇族・貴族の参拝が多くなるとともに数を増していったようです。

王子の中の特に地位の高いものを、5つ選んで5体王子(藤白・切目・稲葉根・滝尻・発心門)と称し、奉幣、読経、相撲、芸能、歌会などの催しもあったようで、王子にはその舞台の残っているところもあります。


熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることです。
石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからです。また、江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もあります。

旅人も病や障害をもちながら、決死の覚悟で歩く人も少なくなく、あちこちに行き倒れになった旅人のお地蔵さんや、伝説が数多く残ります。
by Challenge-dream | 2011-05-02 15:27 | ランニング

by Challenge-dream